僕が服務兵役を成し遂げてきたかどうかを何らかのきっかけで、ブログ読者の何人かに最近聞かれたので、ここで紹介するのだが、ブログの題名は最初から部分的に嘘である。なぜなら、当時、全然そう(良かったと)思わなかったから。19歳の弱虫であった僕にとっては、あの15ヶ月は決して良いとは思えなかった。少なくても主観的に。遠くからの今から振り返ってみれば、楽勝だったとの判断しか出てきそうにもない。でもそれは、今から言うのは簡単、当時の感覚は難しものであった・・・。
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1957年から2010年までに掛けて、ドイツには服務兵役の制度があった。2010年には廃止された訳ではないが、一時的に留保状態に置かされたので、当分の間(永久的かも)若い男の人は軍隊に行かなくて済む。「いいなぁ」と思う人は多いだろうが、「不公平だそれっ!」と、僕みたいな人が思うしかない。僕の世代よりも前の西ドイツの男達はまだ18ヶ月も服務兵役しなくてはならなかったが、僕の時には15ヶ月で済んだ。2010年の最後の頃には、この15ヶ月も8ヶ月まで縮んだが、今はゼロ。
15ヶ月!15ヶ月も人生の貴重な時間を国に貢献した。しかも、当時の一月の「服務手当」はなんと200マルク(今の1万3千円)に過ぎなかった。病気、身体障害、コネ(?)、詐欺、西ベルリンへの移住(= 回避方法の一つ)とその他の理由で服務兵役を回避できた連中と比べて、人生のスパンで15ヶ月分の給料や貯金を損したと考えれば、腹が立つ。実は、なんとかの理由で軍隊に行かなかった人は、代替の社会サービスをやらなければならなかったのだが、それ(代替の)もサボった人がいるので、腹の虫が治まらない。従って、今までの僕の職歴の中で、新入社員を雇う過程で僕がある程度の決定権を持った時に、服務兵役や社会サービスのどちらもやらなかった人は、僕によって絶対採用されなかった。冷たいと思われるかもしれないが、そんなもん・・・。
18歳の時に徴兵検査局から検査への招待状が送ってくる。検査にパスしたら、数ヵ月後に、軍隊からの本番の召集令状も送付してくる。本人はその時に、高校就学中又は職業訓練中だったら、召集令状はその終わりまで留保されるが、その後にちゃんと有効になるので、自分の服務兵役時代の開始がすぐに決まる。
基本訓練の為に僕は最初の6週間、ケルンから100キロ位離れている所にある、陸軍の基地に、一般歩兵として送られた。ただ、いくら冷戦時代でも、毎週末はちゃんと実家に帰らせてもらったよ~。その後、僕はラッキーな事で三つの条件を満たしていたので、毎晩家に帰れる所、当時の西ドイツの首都であったボンの国防省に派遣された。その三つの条件は何だったかというと、一、ボンの近くに実家がある、二、それなりの教育的な背景がある、三、将校でも、戦車の整備士でも、その他の本格的な軍人仕事にもロクに役に立てそうにもなかったということもある(笑)。
ドイツ語ですら当時の専門用語的な表現を覚えていないので、日本語ではそれらを何とか説明してみる事しか出来ないのを残念に思う方がいるかもしれないが、しょうがない、結構昔の事だから・・・。基本訓練ではとにかく、長いマーチの他に、色んな武器の基本操作、解体もメンテも教えてもらった。ピストルでは、ヘクラー&コッホのP7(だったけ?)、機関拳銃ではイスラエル製の「ウージー」、あと機関銃と手榴弾でも訓練させられた。基本訓練場では、上等兵曹にすら挙手の礼をしなくてはならなかったのだが、6週間経って、国防省に派遣された後から、挙手の礼の義務はなんと「大将より、する!大将以下は、しない」とまで上がった。理由は簡単:国防省だけには大将は50人以もいて、少佐、中佐と大佐の人数は5000人にも上っている。言い換えれば、国防省で上等兵曹以上の位の人にみんなに挙手の礼をしなくてはならないのであれば、一般兵士は朝から晩までず~っと手を額に付けたままで歩かなければならないことになる。それは、ちょっとあれだから、「大将より」でよかった・・・。皆さんのお一人は僕の位も聞いたので言うが、最初は位無し(又は「歩兵」のみ)、半年経ったらみんなが一律「上等兵」になり、更に半年経ったらみんなが「兵長」に「出世」する。訓練又は仕事の内容もどちらも同じだが、手当てが2~3千円上がるので、歓迎・・・。
6週間の基本訓練の後で13ヵ月半国防省で服務兵役をやる事は、一般基地の兵役とはかなり違っていた。というか、全く違っていた。比較すれば楽園みたい。一般基地では基本訓練の後でもマーチや復習訓練したり、超つまらない歩哨勤務もやったりしなければならないのに、国防省に送られて、ラッキーの僕らみたいな人達はあんな勤務を殆どしなくて済んだ。
気になる、担っていた勤務は何かというと、13ヵ月半で6回、一週間ずつ待機勤務をやることだった。人によって、歩哨勤務もあったらしいのだが、僕は「アラームドライバー」の「役」を演じた。アラームドライバーの責任は何かというと、「ナト(北大西洋条約機構)・アラーム」が出たら、国防省が当時あったボンの近くに住んでいる大将の家に行って、大将を国防省に連れて行く、という事だった。戦争が起きたり、ソ連軍が襲ってきたりしたとすれば、ナト・アラームが出る事になっていた。あと、僕が凄くびびっていたナト・アラーム訓練時にも。ナト・アラーム訓練では、言葉の通り、その最悪の事態が起きた時に出るアラームやそれに備えられている各対策の訓練をするという事だった。幸い、本当に幸いなことで、僕が国防省にいた時にナト・アラームも、勿論戦争も起きなかった。でも、当時の僕は訓練のアラーム自身も怖がっていた。だって、一週間ぐらい、ボンから50キロぐらい離れている、山脈地帯にあった地下掩蔽壕(えんぺいごう)に行きたくなかったから。今だったら、「冒険っぽくていいんじゃん」と軽く見なせても、当時は怖くて怖くて仕方なかった・・・。
ビデオでもブログでも自分の年齢をばらしたことがなないので、次の小話では、具体的に何の事件なのかが言えない。結局、派生できて分かっちゃうからで・・・。代わりにこう言おう。僕の服務兵役時代には、世界情勢に結構の打撃を与えた出来事があった。ある国が別の国に軍で入って、占領ではなく、その国の政府に「招待された」と国連で世界に呼びかけていた。もし占領された国がナトに加盟していれば、(集団自衛権で)勿論のことで第三次世界大戦の幕開けとなっていたが、ナト加盟国ではなかったので、ナトは直接関係なかった。それにも拘わらず、我々「赤尻」達(若い一般兵のアダナ)は、長い経験を持っている職業軍人達に「ナトが介入をしに行くかもしれないよ~」とからかわれて、我々の中で多くの人達はかなり怖い思いをしていた。しかし、それはからかいだったと数日以内に分かったら、治まった・・・(笑)。言い換えれば、ナトの加盟国ではない国にナト軍が介入しに行っても、服務兵役の人達の中からボランティアーしか行かなくていいことになっていた。日本の感覚から判断してみれば信じられないかもしれないが、ドイツではそんなもんだった。
もう一つの逸話を取り上げよう。国防省で服務兵役をやっていた我々赤尻達の殆どは自宅(実家)で泊まっても、国防省の敷地内にあった中隊舎の前の人員点呼に毎朝集まらなくてはならなかった。軍の部隊又は組織の知らない方に分かりにくいかもしれないが、中隊ごとに、沢山の一般兵のほかに、上等兵曹は何人かいる。上等兵曹の一番偉い人としては曹長がいるが、曹長には恐らく悔しいことで、将校の資格も権限も持っていない。戦略を練ったり、方針を決めたりするのが将校達のみで、その下にいる上等兵曹達(曹長を含めて)は将校達の戦略を実務的に行わなくてはならないことになっている。従って、中隊のボスになっているのはまさか、曹長ではなく、大尉か少佐である。うちの場合は少佐だった。とにかく、朝の点呼の時に大体曹長が一般兵達の前に立って、色々と「命令を表明」したが、その前に一般兵達は(曹長の挨拶に対して)「曹長、おはようございます」と大きく挨拶を返すべきだったのに、みんなが曹長を嫌っていたので、その「曹長、おはようございます」という一般兵達の声は何よりもつまらなくて眠そうで、きっとすぐ隣にある中隊舎までも聞こえなかったと思う。まるで、隣に立っている人に対しての呟きに過ぎなかった。だが、少佐がたまに人員点呼に来た時に、彼が曹長の代わりに挨拶をしたのに対して、一般兵達は全力を尽くして、飛行機の音量でも越えそうな声で「少佐、おはようございまっす」と大きく叫んで、国防省の敷地を超えそうな所までも聞こえたと思われる。勿論、少佐の隣に立っていた曹長はその違いをいい顔で見ていられなかったが、我々の彼に対しての憎しみはこれで唯一表現できる手段となっていたので、仕方がない・・・。
もう一つ、ちょっと恥ずかしい小話も付け加えましょうか?
子供はともかくとして、男という動物も意地悪な面がよく目立つ。そしてどうやら、軍隊ではそれは特によく現れる。今のロシア軍隊で兵役をしている人達についての報告を時々テレビで観たら、我々の時代はまだまだいい方だったと思う。結局、ロシア軍内には、超危ない肝試しか殺し合いまでなることがあるから。我々の所にはそういうことはなかったが、ある人達が、ある人のタンスをいたずらで何回も何回もひっくり返した話は聞いたことがある。タンスの中身(飲み物、洋服、ユニフォーム、その他の機材とか)はあれでどうなるかはきっと想像しやすいであろう。
僕自身はこんな酷い目にあったがないが、別の機会で苛められた。一週間のアラーム待機時に、当時付き合っていた子が基地(国防省)に遊びに来てくれた(これも日本人の耳に入ったら、不思議に聞こえるだろうが、来客は大丈夫になっていた・・・)。とにかく、彼女と部屋で話をしている間に、同じ中隊の一人が突然入ってきて、「お返し致します、貸してくれてありがとうね」と言い、10冊ぐらいのポルノ雑誌を我々が座っている机の上に置いて去っちゃった。はっきり言おう:僕の雑誌でもなかったし、僕はあの人に何も貸した覚えはない、ましてやポルノ雑誌。但し、まだ割りと経験の少ない僕の彼女はその場面を真剣に受け取って、泣いちゃった。従って、あの雑誌を「返してくれた」馬鹿野郎の戦略は叶ったが、逆に可哀想に思わなきゃいけなかいところもあった。それは、あの人には彼女ができなかったということである・・・。
言うのを忘れたが、国防省で我々一般兵達は一体何をやったかはまだ言っていない:朝の中隊舎の前の人員点呼の後で、国防省に属している各事務局に行って、朝から晩まで、少佐、中佐、大佐や大将達の為にタイプを打つということだった。言い換えれば、秘書の仕事をやらされた・・・。だからこそ、いざとなったら、国の防衛にはあまり役に立たないだろうと思われたお陰で、一般基地で兵役をやっていた人達とはちょっと特別扱いされた。一般基地で服務兵役をやっていた人達は兵役が終わった後でも、2~3年ぐらいの間隔で、2週間ぐらいずつ訓練をやらされた。僕とその他、国防省で兵役をやってきた人達は一度もあんな訓練に呼ばれたことがなかった。
ああ、もう一つの逸話が思い出した。国防省にいる間に、国防大臣、ナトの最高司令官とその他、多くの偉い軍人達を見たか会ったかが、最後までに、西ドイツ軍の最高司令官である「四つ星の大将」には会ったことがなかった。それで、同じ村に住んでいる、同時に国防省で服務兵役をやっていた友達にその事情をいつか言ったらしい。最後の日にその友達が突然僕の所にやってきて、「ね、ロルフ、大将が{ロルフを挨拶に来させたまえ}と言ったよ」と、僕に言ってくれた・・・。僕はそれで勿論、凄く驚いちゃったし、ドキドキもしていたが、最後の日に、僕はその友達の紹介で、西ドイツ軍の最高司令官、四つ星の大将の事務所に行って、挨拶を交わしてもらった。その挨拶の後に、13ヵ月半も勤務していた大佐の事務所に同じくお別れ挨拶に行って、「今ブラント大将に挨拶して来ましたよ~」と大佐に言ったら、大佐が「へ~、僕はか大将の事務所に行ったことがないんだ~」と言って笑ったが、少しはすねたりもしていた感じがしないでもなかった・・・(笑)。
僕は軍隊時代が終わって数年後に日本に移住した時に、「国防地域から他所に移住する」事を正式に申請しなくてはならなかったが、机上の手続きだけだった。弱虫であった僕が軍隊自身も訓練も怖がっていたから、当時はドイツを出ることでほっとしていたが、ドイツに帰った後にその恐怖感が殆どなくなり、「まぁ、気晴らしになるから訓練に呼んでもらっても別に構わないなぁ」と思ったが、「貴方はもう年だよ」と言われて、逆にがっかり・・・
こんにちは
返信削除ロルちゃんの兵役話、とてもおもしろく拝読しました。
部署によって全然違う待遇のようですが、国防省は平時のときは普通の事務員と変わりなそうですね。そんな将校のタイプ打ちの仕事に使うなら、わざわざ徴兵しなくてもよさそうですよね。ある程度職業訓練的な要素もあるんでしょうが、完全に退屈そうです(笑)
ポルノ雑誌のやりとりは、ありがちなイタズラですね。正直微笑ましさすらあるエピソードです。
ちなみに「四つ星の大将」と「ブラント大将」で調べると、Generalinspekteur der Bundeswehr(連邦軍総監)が四つ星で、多分ユルゲン・ブラント陸軍大将がその人ではないでしょうか?任期は1978年~1983年ですから、この間にロル氏は、兵役に就かれていたのではないかと・・・(笑)
kahzuさんは鋭過ぎる!みんなばれちゃうじゃないですか。
返信削除穴埋め(バツ)として、海賊党のビデオはいかがですか・・・。
すいません(笑)インターネットで2,3の言葉を検索しますと、すぐに出てきてしまうでして・・・(笑)
返信削除海賊党のビデオ、必ずみます。興味ありますし、面白そうです。
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返信削除面白いですよ〜